びおソーラー誕生秘話/松原美樹

新しいびおソーラーのホームページをスタートするにあたり「びおソーラーに関わる人」にフォーカスを当てて行こうという事なのでトップバッターとしてびおソーラーの開発者である私、松原が自己紹介を兼ねながら「びおソーラー誕生秘話」をお話しようと思います。
びおソーラーが現在の仕様で提供させていただくようになったのは2016年10月からですが、いきなりこの形が生まれた訳ではありません。ここに至るまでに4つの大きなエピソードがあり、その都度考え、悩み、判断して現在のびおソーラーにたどり着いたと言えます。びおソーラーとは何なのか? 何故こうなったのか?びおソーラーはどこを目指すの? といった事をこれまでの経験をたどりながら私の想いをお話してみたいと思います。

松原美樹

松原美樹


エピソードⅠ
空気集熱式ソーラーとの出会い(1994年)

私の名前は松原美樹(まつばらよしき)。1965年12月、愛知県生まれ。地元の大学で建築を学び、卒業後は名古屋の建築設計事務所に勤めました。
この会社は半官半民の仕事をしており、公共事業では愛知県や名古屋市の仕事として学校や病院、保育園など。民間では地元デベロッパーの分譲マンションや事務所ビルなどの設計に携わりました。
時はまさにバブル経済の真っただ中でしたからリゾートマンションなどのバブリーな建物も有ったりして連日深夜まで図面を描かされていました。
一級建築士の資格を取得して、設計から監理まで一通りの仕事を覚えた頃、ふと疑問に感じ始めたことがありました。
当時、戸建て住宅の設計はやってなかったので、人の住まいとしては前述の分譲マンションになりますが、建てる敷地が変わるだけで建物の設計はいつも一緒。
如何に容積率いっぱいまで使い切るか、だけが目的となるような仕事に明け暮れていました。
このマンションを買う人たちは残りの人生を住宅ローンの返済に充てるというのに、つくってる側がこんなやり方で良いのだろうか? と思えてきたのです。
マンションが完成し、売り出しが始まったら1週間で完売しなければ設計が悪いとデベロッパーから責められてしまうようなプレッシャーだけが大きくて、そこに住まう人の事なんて考える余裕はありませんでした。

名古屋時代の仕事1

名古屋時代の仕事

そんな状況が続く中で大きな転機が訪れます。結婚を機に名古屋を離れて静岡県浜松市で暮らすことになったのです。
これまで勤めていた設計事務所を退職し、何の当てもないまま浜松にて職探しを始めたのですがこの時「空気集熱式ソーラーシステム・OMソーラー」というものに出会いました。
全国の会員工務店と共にこのソーラーシステムの普及を進めているOMソーラー協会が「建築士募集」の求人を出していたのです。
正直、この時は何をやってる会社か全く知りませんでしたが面接の際にOMソーラーについての説明を受け、「その土地の気候条件に合わせて家をつくる」という話にものすごく感動しました。
びおソーラーを含む空気集熱式ソーラーの基本原理を考案した建築家・奥村昭雄氏の著書「パッシブシステム住宅の設計」(丸善1985年刊)の序文に次のことが記されています。

生命にとって一瞬も欠かすことができない大気が熱の運搬者であり、生命を生んだ海が巨大な蓄熱体であるように、パッシブシステムでは、建築の空間や構造物そのものを環境の中で熱的にも機能させる。装置を付け加えるというものでも、ある手法を採用しさえすればよいというものでもない。建物それ自身を熱的な役割としてもとらえるのだから、パッシブシステム設計は、建築設計行為全体の中にとけ込んでしかあることはできない。
自然環境のもっている力を最大限に利用しようとするとき、当然、その場所の環境・気候条件の把握の中から手法をさぐりださなければならない。それゆえパッシブシステムは画一的なものであり得ず、地域性をもつはずである。建物の使用条件、住み手のアクティブな関与によって機能するから、パッシブシステムは無限の多様性をもって表われる。

私は、それまでの建築人生の中でこのような建築設計の考え方があるという事を知りませんでした。自分が理想とする家づくりとはこういう事なのかもしれない。是非これをやってみたいと思ってお世話になる事にしたのです。空気集熱式ソーラーを初めて知ったあの時の感動は、二十六年を経た現在も忘れていません。OMソーラーと出会わなければ今のような考え方には至らなかったでしょうし、びおソーラーにも結びつかなかったと思います。

奥村昭雄さん